六代上田直方 信楽茶陶を受け継ぐ

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六代上田直方
信楽茶陶を受け継ぐ

「信楽糸目一重口水指」高さ16cm、16.5×14cm

「信楽糸目一重口水指」高さ16cm、16.5×14cm



信楽焼の伝統を伝える古来窯は幕末に始まり、信楽の茶陶を受け継ぐ。その六代目は福岡県に生まれ、丹波や信楽の宗陶苑で修行し、上田直方の名跡を継いだ。
窖窯を新たに築き、自ら掘り出した原土を使い、侘茶の茶陶を切り拓く。

立杭で修行し信楽へ
1300年の歴史を誇る信楽焼は、聖武天皇が紫香楽の離宮を造営する8世紀中頃に始まる。標高300mの丘陵地に窖窯が築かれ、離宮の瓦や什器の須恵器が焼かれた。中世には六古窯の一つとして雑器や種壺などの農具を焼き、それが侘茶を完成に導いた室町時代の茶匠・竹野紹鷗(1502〜55)の目にとまり、茶陶の道がひらかれた。利休、小堀遠州などの茶匠も相次いで制作を依頼するようになり、信楽焼の茶陶は揺るぎない地位を確立することになる。
人に高く評価された信楽焼の茶陶づくりを幕末から明治にかけて担ったのが高橋楽斎や石井直方らで、ともに茶陶の名人として信楽焼の歴史に名を刻む。石井直方は二代目から上田直方と姓を改め、四代と五代はともに滋賀県の無形文化財に認定されるなど、古来窯の上田家は信楽茶陶の本流を歩む名門で、2010年に六代に代替わりした。古来窯を継いだのは、1957年に福岡県の兼業農家の四男として生まれた光春氏。地元の高校を卒業するとき、久留米生まれの洋画家・坂本繁二郎が好きだった兄にすすめられ、焼き物の道にすすんだ。
春氏が最初に訪れたのは、バイクが好きで高校のころから走り回っていたことがある山陰の窯場。萩は観光客相手の窯元だったのでパスし、出雲を経て篠山から丹波焼の立杭に入った。幸運にも、息子が進学して空きができた大上強さんの工房に内弟子になり、当家のおじさんの部屋に下宿し、家族扱いで焼き物というものを教えてもらった。
杭での修行を79年に終えた光春氏が次に向かったのは、仕事仲間に紹介された信楽の宗陶苑。そこで出会ったのが五代目の長女で、3年後に結婚し、84年には五代に師事。2010年に六代目襲名の運びとなったのである。

古来窯に窖窯を築いて焼く
陶苑の登り窯は、江戸期に築かれたとされる。全長30mで11部屋あり、8番目の部屋では高さ2mの狸を焼くことができる巨大な窯だ。明治から昭和の初期までは寄合窯として使用され、その後親戚筋の上田家が使用していたものをゆずり受けたもの。さらに五代は窯場もゆずり渡し、丘陵の際に古来窯の窖窯を移して現在に至る。
来窯に入った光春氏が最初に築いたのは倒炎式の薪窯で、窯の両側から薪を投入し、主に灰釉による御本や窯変に取り組んだ。85年のことで、光春氏はその前年度に滋賀県の窯業試験場で釉薬を学んでいる。釉薬ものでも焼締でも、そこに窯を焚くという共通項があったからで、窯を知るうえで釉薬のことを勉強しておく必要を感じていたからだ。
年後光春氏は、倒炎式薪窯の片側を塞いで焼締焼成に転じ、さらに小さな窖窯を新たに築いた。参考にしたのが、当時信楽焼を代表する陶芸家の一人として人気を集めていた古谷道生(1946〜2000)の窯や著書で、光春氏は実際に窯詰めから焚きまでを見学する幸運にも恵まれている。しかし、その窖窯が完成した2000年に古谷はこの世を去った。
ら築いた窖窯で焚くこと6年あまり、古来窯が受け継いできた信楽の侘びの茶陶に到達できるという確信を得た光春氏は、今度は古来窯の窖窯のつくり直しに着手した。自分の窖窯が冷めやすく、緋色が茶色っぽくなる傾向が強かったからで、半地下式にして蓄熱率を向上させた。また、窯厚を強くして炎が舞うようにして焚くので、それに負けないように焚き口の周囲をレンガで固めた。
春氏の窖窯に並ぶように築かれた2室からなる新たな窖窯の焼成時間は6日半。親しくしている粘土屋さんの山から自ら掘り出した蛙目粘土を使うなど、光春氏は六代目としての新たな侘茶陶の境地に挑んでいる。



UEDA NAOKATA PROFILE
1957年 福岡県八女郡立花町に生まれる
1975年 丹波で伝統工芸士・大上強氏に師事
1979年 信楽の宗陶苑で登り窯の焼成に従事
1982年 朝日陶芸展入選
1983年 京都府立陶工訓練校成形科修了
1984年 滋賀県立窯業試験場釉薬科修了
    古賀茶道文化研究所・古賀健藏に指導を受ける
    五代直方に師事
1987年 ギャラリー陶園(信楽)で個展。以後全国で開催
2003年 秀明文化基金賞
2006年 韓国済州窯で焼成指導
2008年 日本伝統工芸展入選
2010年 六代上田直方を襲名
2012年 髙島屋京都店で襲名展
2014年 日本橋髙島屋で襲名展