塚本治彦 荒ぶる「織部」

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塚本治彦
荒ぶる「織部」

「織部手桶花器」高さ60cm、48×31cm

「織部手桶花器」高さ60cm、48×31cm



駄知丼(ルビだちどんぶり)の里に生まれ育った塚本治彦氏は、機械ではなく手づくりの焼き物に惹かれてこの世界に飛び込んだ。
長石粒を混ぜたもぐさ土でそぎを多用し、“塚本織部”をつくり上げた。
作陶三〇年を迎えた現在は、織部焼の作域を朝鮮唐津や伊賀に拡大しようとしている。

轆轤に惹かれる
桃山陶が姿を消した美濃で日常雑器が焼かれるようになったのは一七世紀後半からで、江戸末期には磁器の生産も開始された。有田に二〇〇年の遅れをとったが、地域別の製品生産と機械化を推進し、日本一の生産量を現在も維持している。バブルが崩壊してその地位は変わらず、豊富な原材料を背景に、和食器・洋食器の生産量はともに国内の過半数以上を占め、その中のどんぶりは全国の六割ほどのシェアを占める。
荒々しい織部をつくる塚本治彦氏は、その「駄知丼」の生産地域として知られる土岐市の駄知町に生まれ育った。町には一日一〇万個をつくる工場があり、二〇〇〜三〇〇人の従業員が、二四時間体制で働いした。塚本氏が生まれ育った北山にその工場の社宅があり、お祖父さんは駄菓子屋を営むかたわら、陶器の卸にも手を染めていた。
本氏は高校生の頃、機械生産の焼き物にはまったく見向きもせず、すぐ近くで作家活動を行っていた早川春泰氏の轆轤に強い興味を抱いた。早川は瀬戸で志野を学んで横浜に築窯。五島美術館の陶芸教室講師などを経て駄知町に新たな窯を築き、本格的に美濃陶に取り組んでいたのだ。塚本氏はもともと絵画を志向していたが、茶碗や花入を次々に挽き上げる轆轤に圧倒されて工房に通うようになり、二二歳のときに陶芸に進むことを決意して瀬戸の訓練校に入った。さらに七九年には多治見の意匠研究所に入り、八一年には粉引で瑞浪市無形文化財に指定される浅井礼二郎氏に師事。その五年後には駄菓子屋を工房に改造して独立し、織部を初めとする美濃陶を焼き始めた。そして、師の早川氏には作品は東京で売るようにと教えに受けていたので、陶芸雑誌の広告などを参考に販売ルートの開拓を行った。
一方春陽会にも属し、絵の指導も行っていた浅井氏は、第一回朝日陶芸展でグランプリを受賞するなど、新しい感覚の食器やエネルギッシュな織部を制作し、高い評価を受けていた。塚本氏の焼き物づくりは、この二人の師の教えを軸に展開してきているが、さらに、個展会場におけるコレクターの反応も重要なファクターとなっている。

織部焼の神髄を継承する
かでも評判が良かったのは、そぎによる織部だった。ヘラで素地の余分をけずり取る「そぎ」の技法では、土の中に秘められていた命のようなエネルギーが、けずり口の周囲にほとばしる。それをもっと強烈に表現するために塚本氏が採っている方法は、土の中に大小の長石粒を加えること。長石粒は、細かくつぶせば釉薬になる途中のもので、いつも一割から二割ほど加えられているのだ。
うした信楽の石ハゼに匹敵する荒々しい肌合いは塚本織部として定着したが、塚本氏は作陶三〇年を迎えて朝鮮唐津や伊賀などにも作域を拡大した。そこには、時代を担った戦国大名の心意気を表したと言われる織部焼の神髄が流れている。



TAUKAMOTO HARUHIKO PROFILE
1959年 岐阜県土岐市に生まれる
1977年 野中春清に志野の薫陶を受ける
1978年 瀬戸窯業職業訓練校卒業
1980年 多治見市陶磁器意匠研究所修了
1981年 浅井礼二郎に師事
1985年 北斗窯築窯
朝日陶芸展グランプリ、現代茶陶展銀賞、美濃陶芸展中日奨励賞、淡交ビエンナーレ展特別賞、一水会展一水会賞、岐阜県芸術文化奨励賞・記者クラブ賞などを受賞。
全国各地の百貨店、ギャラリーで個展多数。
現在、日本工芸会正会員、一水会会員、美濃陶芸協会会員。