神谷紀雄 鉄絵銅彩を貫く

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神谷紀雄
鉄絵銅彩を貫く

「鉄絵銅彩葡萄文花器」 高さ31cm、径31.5cm

「鉄絵銅彩葡萄文花器」 高さ31cm、径31.5cm



益子焼窯元の四代目で、窯は千葉モノレールの側。
首都圏に移り住んでからも益子の土にこだわり、土の軟らかさを表現の根幹にすえ、鉄絵と銅彩による独創的な世界を築く。

革新的な神谷家
子の神谷家は、江戸時代末期の益子焼創業とともに始まり、窯はその中心とも言える道祖土(さやど)にあった。笠間の大塚啓三郎が開窯した益子焼は当初日常雑器を焼き、半農半陶であったが、1924年に英国から帰国した濱田庄司が定住するようになってからは、民藝陶器の中心的な窯場に発展した。だがその繁栄も、朝鮮戦争が終結したころに沈静化した。
代目の父親は局面を打開するため、横浜・港北区に窯を築き、新たな市場開拓を始めた。神谷氏が益子の高校生だったころで、氏は普通大学への進学を考えていた。しかし、美術大学なら学費を出す、という民藝ではなく陶芸作家を目指せと教える革新的な三代目の決定に従った。
浜で暮らすようになった神谷氏は、益子土による土づくりから窯焚きまでを、美大に通いながらこなした。実際の焼き物づくりを通して三代から益子焼を叩き込まれたわけだが、陶芸家・神谷紀雄氏を決定づけた人物がもう一人いる。1940年から横浜市日吉に住み、61年に重要無形文化財保持者に認定された東京藝大教授の加藤土師萌だ。同じ私鉄沿線に窯を構える関係で交流が始まり、第三京浜の用地買収で窯を移さざるをえなくなったとき、横浜から有望な陶芸家が一人いなくなってしまうという励ましの言葉をいただいた。
谷氏が多摩美術大学を卒業した翌年の64年、神谷家は千葉市東寺山に登り窯を築き、現在に至っている。

横浜時代から鉄絵と銅彩
葉モノレールに接してはいるものの、豊かな自然に囲まれた制作室は、茶碗などを挽く蹴轆轤と、電動轆轤及び絵付けの建物に分かれている。益子から取り寄せた土を数種類混ぜ合わせて制作しているのは、皿、鉢、花器、壺、茶碗ほかで、ざっくりとした益子土の砂目の瑞々しさが印象的だ。しかし、可塑性に難があるので、そのざっくり感をどのように出すかが、轆轤挽きの問題として立ちはだかった。
れを解決するために神谷氏がとった壺挽きは、胴を膨らませるときに内側からだけコテを当てるというもの。腰が落ちそうになったら、しばらく乾かしてから限界まで伸ばす。また、花器のように側面をそぐ場合は、厚めに挽いた胴をやや柔らかめのときに一息でそぎ落とす。こうした作品には「揺らぎ」が漂い、土が生きているような印象を与えるのだ。
子土にこだわる神谷氏は、化粧土も同地のものを使っていたが、80年ころからより白い天草陶石とカオリンに切り替えている。絵柄をより生かすためだったが、鉄絵と銅彩という組み合わせは横浜時代から変えていない。同技法で重要無形文化財保持者に認定された田村耕一がおり、67年に師事、と神谷氏の年譜にある。しかしそれは、伝統工芸展に出品するにあたり、同県の先達に挨拶に伺い、以後作品を見てもらうために年2回ほど訪問するという師弟関係であった。
絵が寂しいから銅彩を入れた神谷氏と田村は、同時期に同じ技法に手を染めていたことになるが、両者の作品の違いは明確で、評者もそれを認識し始めている。



KAMIYA NORIO PROFILE
1940年 栃木県益子町に窯元の四代目として生まれる
1963年 多摩美術大学彫刻科卒業
1964年 千葉市東寺山に築窯
1967年 田村耕一に師事
1968年 日本伝統工芸展入選
1971年 日本陶芸展入選
1983年 夷隅郡大原町役場の陶壁を制作
1985年 個展(銀座和光)
1986年 伝統工芸新作展奨励賞
1988年 伝統工芸新作展鑑審査員
1989年 千葉市若葉区役所の陶壁を制作
1999年 千葉県庁中庁舎ホールの陶壁「菓々」を制作
国際交流基金によりポルトガル、スペインで陶芸指導
2002年 韓国平沢市インターナショナル陶芸フェスティバル参加
2003年 日本伝統工芸展第50回展記念賞
現在、日本工芸会正会員、伝統工芸新作展鑑審査員