西村俊彦 線文彩を極める

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西村俊彦
線文彩を極める

「線文象嵌加彩壺」高さ30cm、径34cm

「線文象嵌加彩壺」高さ30cm、径34cm



大学3年のとき、日本一周のサイクリングで出会った焼き物に惹かれた、益子に行くことを即断。塚本製陶所で五年学んで独立した。
同所の先達・加守田章二の影響を受けながらも、益子のよき素材を生かした独自の線文彩を確立し、益子を代表する作家の一人として活躍する。

四国で焼き物業を即断
子ではいちばん若い日本工芸会正会員の西村俊彦氏は、日本一の大地主と言われた本間家のある山形県酒田市に生まれた。生家は、相馬楼など酒田を代表する料亭が立ち並ぶ繁華街の一角で自転車販売及び修理を営み、西村氏はその自転車に興味を持った。そして、高校の頃からサイクリングによる日本一周を目指し、東京の大学に進学してからもそれを継続した。
西村氏のサイクリングには二つの決まりがある。一つは、決して汽車などの乗り物に乗らないこと。もう一つは坂道を登るときは決して休まないこと。それを守りながらの日本一周の最後が四国であったが、そのサイクリングが西村氏の将来を決定した。四国を南下する途中で目にした砥部焼の精巧なつくりに、瞬時に目を奪われたのだ。そして、高知で雑誌の益子焼特集を読み、益子で焼き物をつくることを決断した。小学生のころから、和紙づくりなどの地場産業に興味を持っていたからだ。
学に退学届けを出した西村氏は、旅先で知り合った友人を頼りに笠間に1週間滞在し、その後益子に向かった。陶芸志望を支援する研究生制度が塚本製陶所にあることを知ったからだ。
1955年頃に始まった同制度の利用者は数百人。そのうち現役の陶芸家は100人を超えるといわれているが、その代表格が20世紀陶芸の鬼才・加守田章二(1933〜83)。
都市立芸術大学を卒業した加守田は、師事した富本憲吉が一時期運動を共にしたことがある民藝の濱田庄司の作品に感動し、益子に窯を築いたと言われている。斬新な意匠で、益子でその影響を受けていない陶芸家はいないといわれており、濱田庄司とともに益子焼の現代化を推進した功労者の一人だ。西村氏が研究生のときは、曲線彫文や彩陶などと次々と新境地を切り拓いていく加守田がいつも話題の中心になっていた。

天然の白にこだわる
5年間修行して85年に独立した西村氏は、益子中学校の近くを借りて作陶し、2年後には独立した陶芸家が多く住む大沢地区に窯を開いた。当時制作していたのは、益子伝来の粉引を中心としたコーヒーカップ&ソーサーなどの日常陶器だったが、91年頃からは伝統工芸展に線文の出品を開始。その実力が評価されて、現在は日本工芸会の正会員として、益子を代表する作家の一人に数えられるようになった。
り針で細い線を彫った素地には、素焼きしてから白化粧土を象嵌する。白化粧土の原料は天然の白絵土で、益子から北に30kmほどの矢板から自ら掘り出してきたもの。山水土瓶などに掛けられた益子の白絵土は枯渇してしまったが、細い線を強く際立たせる天然ものにこだわっていまいるのだ。
い白線の間に塗られている黒、プラチナ、赤などの色彩は本焼き後の上絵付けで、化粧土の食いつきや上絵具の発色を考慮して、素地の信楽並土には木節粘土、童仙房を混ぜている。釉薬を掛けないで本焼きしているため、表面は焼締のようにざらついているが、使っているうちにざらつきがなくなって手に馴染むという色彩豊かな新感覚の「焼締陶」だ。



NISHIMURA TOSHIHIKO PROFILE
1957年 山形県酒田市に生まれる
1978年 帝京大学中退
1978年 益子町塚本製陶所研究生
1983年 独立
1991年 伝統工芸新作展入選
1993年 朝日陶芸展入選
1995年 日本陶芸展入選
1995年 日本伝統工芸展入選
1999年 北関東陶芸展準毎日大賞
2001年 北関東陶芸展招待
銀座陶悦、筍心堂(大田原)、益子もえぎ、やまに大塚などで個展
日本工芸会会員