宗像利浩 用の美の究極に挑む

by & filed under .

宗像利浩
用の美の究極に挑む

F宗像利浩62-01

「禾目利鉢」高さ11cm、径58cm


400余年の歴史を誇る会津本郷焼。明治にはほとんどの窯元が磁器に移行したが、陶土を守り抜いた像窯の八代目。「利鉢」という新スタイルを世に問う。

グランプリを受賞した「鰊鉢」
1593年、福島県の会津で初めて瓦が焼かれた。若松城修復のために藩主が焼かせたものだが、50年後には会津本郷で陶業に乗り出している。領内に移り住んでいた陶工・水野源左衛門が、同地に良質の土を発見したためである。
らに会津藩は磁器にも取り組み、1816年には佐藤伊兵衛が白磁の焼成に成功した。明治にはほとんどの窯元が磁器を焼くようになり、会津本郷焼の磁器は繁栄を極めた。
一方、宗像窯の先祖である宗像出雲守式部は766年、宗像大社の布教のために福岡から会津本郷に移り住んだ。現在の宗像窯の近くにある宗像神社(現在は広瀬神社で、水野源左衛門と佐藤伊兵衛の位牌を安置する陶祖廟がある)を建てて布教を行っていたが、1718年から生計を維持するために陶器をつくり始めた。そして、100年ほど経った文政の頃、焼き物に秀でた八郎秀延が神官を辞して陶業に専念。ちょうど会津藩が磁器を焼き始めた頃である。
かし、鉄道の開通とともに東北地方に押し寄せた近代化の波は、すり鉢や甕をはじめとする生活雑器を陶土で焼いていた宗像窯に容赦なく襲いかかった。五代は持ち前の頑固さで陶器づくりを貫き、六代目がそれを支えた。そしてその陶器が戦後、柳宗悦らの民芸運動に評価されるようになり、宗像窯は次第に脚光を浴びるようになった。それを決定づけたのが、1958年のブリュッセルの万国博覧会でのグランプリ受賞であった。

茶碗づくりに学ぶ
賞したのは、会津地方の伝統的な保存食である鰊(にしん)を酢漬けするための四角い「鰊鉢」で、タタラづくりで女性の仕事。土から釉薬まで宗像窯に伝えられている原材料と手順でつくられている。そうした宗像窯の原材料をそのまま受け継いで制作に励んでいる宗像利浩氏だが、先代以前とはまったく異なった観点から制作に励む。
都嵯峨美術短期大学の陶芸科を卒業した宗像利浩氏は3年間、柳宗悦の民芸論を実践する出雲の出西(しゅっさい>窯で修行した。そしてその成果は、1982年の日本民藝館展で奨励賞受賞という形で現れた。しかし、その後の宗像氏の作陶に強い影響を与えたのは、翌年の表千家福島大会のために制作した天目茶碗だ。なかなか茶碗にならずに苦労したが、その制作をとおして茶碗というのは用の美の究極に位置していると宗像氏は理解するようになった。つまり茶碗は、いままで宗像窯で制作していた生活雑器の延長線上にあったということだった。それ以後宗像氏は、生活雑器と茶碗と並行しながら制作するようになる。鉢や壺などの用的部分に、茶碗の美が自然にプラスされるようになったのだ。
像氏は、ぴんと張った力強い口と緊張感があふれる見込を持つ大鉢を、自分の名前を一文字入れた「利鉢」と命名し、1997年の日本陶芸展に出品した。それは、宗像窯の従来の土と釉薬による作品であったが準大賞となり、さらに2003年には同展で文部科学大臣賞を受賞するなど高く評価された。宗像氏が使用している茶碗の土は他の器と同じで、粘りのある「的場」(まとば)と耐火度が高い「やけ」のはたき土を混ぜたもの。一方釉薬は、飴釉、白釉、鉄釉、辰砂釉、天目釉、楢の灰釉などで、地元の酸化鉄の多く含む土や工房のストーブの灰と調合したものだ。八代目利浩氏は、宗像窯伝来の原材料で会津本郷焼の新たな未来を切り拓いた。




MUNAKATA  TOSHIHIRO  PROFILE
1957年 会津美里町に生まれる
1977年 京都嵯峨美術短期大学陶芸科(現京都嵯峨芸術大学)卒業
1997年 第14回日本陶芸展 準大賞(日本陶芸展賞)
2000年 やきもの探訪展(日本橋三越本店 NHK主催)
2003年 第17回日本陶芸展 文部科学大臣賞
2005年 第18回日本陶芸展より招待出品
2008年 個展(日本橋三越本店特選画廊
2009年 個展(フォーシーズンズホテル椿山荘東京
2010・2012・2015年 個展(高島屋大阪店美術画廊)
2010年 個展(フランス・パリ/エスパス・イセ・サンジェルマン
2013年 東大寺に抹茶碗奉納
2013年 個展(現代陶芸寛土里/ホテルニューオータニ)
2014年 創業四十周年記念 茶碗展(現代陶芸 寛土里)

パブリックコレクション:出光美術館、兵庫陶芸美術館、福島県立美術館
日本工芸会正会員、福島大学客員教授