井上萬二 白磁の造形美を極める

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井上萬二
白磁の造形美を極める

「白磁花形花器」高さ23cm、径44cm

「白磁花形花器」高さ23cm、径44cm



17歳で柿右衛門窯に入り轆轤師となり、有田焼の伝統を受け継ぐ白磁の名人にも師事。
完璧な轆轤技による造形美豊かな白磁を展開しm重要無形文化財保持者として頂点を極める。

有田の焼き物を極める
世紀の中国で始まったとされる白磁が日本でつくられるようになったのは江戸期のことで、文禄・慶長の役を機に渡来した李参平が、1616年に有田町の泉山に陶石を発見し、近くの天狗谷で焼いたのが最初とされる。李朝の陶工であった李参平は朝鮮忠清道金江出身で、日本名は金ヶ江三兵衛。主に白磁の染付を焼いたとされるが、その後有田では日本独特の色絵磁器を完成させ、世界中に愛された。
付や色絵の脇役として捉えられることが多かった白一色の白磁がテーマになり始めたのは明治に入ってからで、姿形だけで見せる究極の白磁美に到達したのが、1995年に重要無形文化財保持者に認定された井上萬二氏だ。1929年有田の窯元に生まれた井上氏は15歳のとき、海軍航空隊に入隊。最年少の練習生として、翌年鹿屋で終戦を迎えた。有田焼の窯元に生まれ、職人の働く姿を幼い頃から見て育った井上氏だったが、焼き物をやりたいと思ったことは一度もなかった。しかし、敗戦で実家に戻り、焼き物を継いでくれと親に言われ、有田焼を極める決心をした。
きな目標を立てた17歳の井上氏は、すぐ側の江戸時代からの名門・柿右衛門窯に弟子入り。その一日は火鉢に火をおこしたり蹴轆轤に油を差したりと、職人が出勤したらすぐに仕事ができる準備をすることから始まった。準備を終えたらいったん実家に戻り、朝飯を済ませてから改めて出勤。日中は窯仕事を手伝い、職人が帰ってから蹴轆轤で挽いてはこわすという日課だった。
行が5年目に入ったある日、こわすのがもったいないから挽いたものをそのまま置いておくように十三代酒井田柿右衛門に言われた。井上氏は22歳になってようやく一人前の轆轤師として認められるようになったわけが、じつはもっと倣いたいと思う作品が他にあった。有田焼を代表する轆轤師・初代奥川忠右衛門(1901〜75)が挽く白磁である。
代奥川は、請われれば日展や工芸会作家のために素地の大物を挽く白磁の実力作家。井上氏は、染付や色絵の脇役として捉えられることが多かった初代奥川白磁の造形美に感動を覚え、弟子になることを許された。柿右衛門窯は3時に切り上げ、奥川が受け継いできた有田の蹴轆轤に直に接することができたのだ。

完璧な白磁
川窯で究極の轆轤技を吸収した井上氏は、初代奥川が病に倒れた後はその仕事を受け継ぎ、有田を代表する轆轤師の一人として制作に励んだ。しかし1958年には柿右衛門窯を退社し、有田窯業試験場の技官として勤務する道に進んだ。習得した轆轤技を広く世に広めながら、有田焼を極めるにはもっと勉強を重ねるべきだと悟ったからだ。
13年間窯業試験場に勤務した井上氏は、1969年には米国・ペンシルベニア州立大で有田焼の作陶を指導。退職後もニューメキシコ州立大学で講座を受け持ち、教授を勤める。その結果、国内外で指導を受けた受講生は500人以上に達し、有田焼の第一線で活躍する陶芸家も多い。
1971年、42歳になった井上氏は窯業試験場を辞して独立した。県展や公募展でそれなりの評価を受け、陶芸家としても順調な道を歩んでいたときである。そこには、途絶えてはいけない有田焼の轆轤技術を受け継いで世に広めたものの、自分なりの白磁の造形美をもっと極めたいという強い願望があった。そして技に磨きを掛けた井上氏は、1mmの狂いもない完璧な白磁を制作し、重要無形文化財保持者に指定されるまでになった。



INOUE MANJI PROFILE
1929年 佐賀県有田町に生まれる
1945年 柿右衛門窯に入る
1952年 初代奥川忠右衛門に師事
1958年 柿右衛門窯を退社し、県立有田窯業試験場に勤務
1967年 九州山口陶磁展文部大臣奨励賞
1968年 日本伝統工芸展入選
1969年 ペンシルバニア州立大学で有田焼の講師(〜76年)
1971年 日本陶芸展入選
1983年 ニューメキシコ州立大学で美術指導(以後19回)
1986年 佐賀県芸術文化功労賞
1987年 日本伝統工芸展文部大臣賞
1993年 佐賀県県政功労賞
1995年 重要無形文化財保持者に認定
    日本陶芸展鑑査委員
1997年 紫綬褒章
2002年 西日本文化賞
2003年 旭日中綬章受賞
日本工芸会参与、有田町名誉町民