佐久間藤也 伝統からの出発

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佐久間藤也
伝統からの出発

「青磁釉交文花器」高さ28cm、径27cm

「青磁釉交文花器」高さ28cm、径27cm


益子焼の名門・藤太郎窯の四代目。先代が学生のときに亡くなり、産地の窯元としてはマイナス地点からのスタートとなった。しかし現在は、益子焼独自の釉薬のレシピを受け継ぐ実力者として、新たな表現に取り組む。

濱田庄司に惹かれた祖父
溝山地を遠景に、なだらかな丘陵地に登り窯が築かれた益子焼は、江戸時代末期の1853年に始まる。笠間で修行した大塚啓三郎が開窯したもので、黒羽藩の庇護も受けて甕、すり鉢、行平、土瓶などを焼いた。こうした生活雑器は、東京を初めとする消費地に運ばれたが、その土瓶に惹かれて陶芸の道を選んだのが、1955年に民藝陶器で重要無形文化財保持者に認定され、68年に文化勲章を受章した濱田庄司(1894〜1978)だ。日常的に慣れ親しんでいる山水土瓶をたくさんつくっていると聞いた益子に思いを馳せ、中学のときに工芸の道に進むことを決意し、板谷波山が指導する東京高等工業学校に進学。京都市陶磁器試験場を経てイギリスに渡り、24年に帰国して益子に移り住んだ。制作の場としたのが益子焼本通りに面した折越窯で、轆轤を1台借りて制作を開始した。
「羨ましいほど仕事が自由で愉しそうな流し掛け、化粧土や色釉で刷毛目を打ったり……」
う記したのは、佐久間藤也氏の祖父・佐久間藤太郎(1900〜76)。その仕事ぶりに強く惹かれた藤太郎は濱田に自分の窯に来てもらい、同居しながらともに制作することになった。しかし藤太郎窯は、父・福太郎が興した窯で、雑器づくりに忙しく、二人が轆轤を並べるのは、家業が終わってからであった。1930年濱田は、藤太郎の世話で現在の益子参考館に窯を築いた。そして、益子の原材料を生かした陶器づくりに磨きを掛け、益子を民藝陶器の中心的な窯場へと押し上げた。

マイナスからの出発
一方、栃木県文化功労賞を受賞するなど、益子焼の発展に大きく寄与した佐久間藤太郎氏であったが、後を継ぐべき長男がアメリカで陶芸の教職に就いてしまった。そのため、濱田邸の近くで焼き物づくりを行っていた三男の賢司氏が藤太郎窯を継いだが、その賢司氏が急に亡くなるという大きなアクシデントに見舞われた。父親の焼き物づくりを手伝うために名古屋芸術大学で学んでいた藤也氏が3年生のときで、氏は卒業と同時に益子に戻って栃木県の窯業指導所に入所。翌年藤太郎窯に入って、窯の仕事を開始した。
じいさんの“藤”の字をもらったのは藤也氏だけだったので、それなりの意気込みがあったが、「茄子皿」を初めとする窯ものが前のように焼けず、藤也氏は愕然とした。見込に1〜2個の茄子をイッチンした「茄子皿」は、藤太郎が創案した型もので、藤太郎窯の代名詞。現在も愛好するファンに支えられているロングセラー作品だが、土や釉薬などの原材料が以前とまったく一緒でも、先代のものと微妙に異なっていたのだ。それもそのはず、藤也氏が窯に入る前に祖父と父親が亡くなっているうえに、窯には釉薬の配合レシピ類が1枚もなかったからだ。藤也氏は独立した職人に聞いて調合と焼成を繰り返し、やっと藤太郎窯の定番ものと認めてもらえるものが焼けるようになった。そういった意味では藤也氏の焼き物は、ゼロからというよりマイナスからの出発であったと言える。

伝統釉薬で新たな表現
也氏で四代目となる藤太郎窯は、濱田庄司が轆轤場を間借りした折越窯を少し入ったところにある。広い工房には、南の障子窓に向かって電動轆轤が並ぶ。ランプしかなかった頃に建てられ、南から陽の光を取り入れる構造になっている。今までほとんど手を加えていないので、濱田庄司が制作していた頃のままである。
房の奥には、1955に藤太郎が築いた登り窯がある。当初は8部屋あり、父親が5部屋に、藤也氏が4部屋に縮小したが、東日本大震災で最上段の捨て間が崩れてしまった。また藤也氏が、登り窯の手前に築いたレンガ造りの塩釉窯も一部が崩れ、その横の立て屋にある2立米もの巨大なガス窯は、ブタンガスを気化するペーパーライザーが破損。それらの被害は決して小さなものではなかったが、藤也氏は地元の400もの窯元に声を掛けて格安で提供してもらった益子焼の食器セットを被災地に送る組合の事業にも尽力した。
ながらの工房で藤也氏が制作しているのは、花瓶、皿、土瓶などで、それに益子伝来の柿釉、青磁釉、黒釉、糠白釉、並白釉、黒釉などを掛ける。釉薬は、前につくっておいたものを使い始めたときに、次のものを調合する。それを焼成の度にテストを繰り返し、前のがなくなるまでに完成させる。自然の原料がかなりの割合を占めているので、調整に時間がかかるのだ。こうした益子独自の釉薬や土で、新たな表現を生み出しているのが、佐久間藤也氏の現在だ。




SAKUMA FUJIYA PROFILE
1963年 祖父佐久間藤太郎、父賢司の長男として益子に生まれる
1985年 名古屋芸術大学美術学部卒業
1986年 栃木県立窯業指導所修業
    佐久間藤太郎窯に入る
1999年 第73回国展初入選、以後連続入選
2002年 第76回国展奨励賞
2003年 第77回国展新人賞
2004年 国画会会友になる
2005年 第79回国展国画賞
    国画会準会員に推挙
2006年 伝統的工芸品産業振興の功績により経済産業大臣より表彰
2007年 益子陶芸美術館収蔵
東京、宇都宮、益子等で個展・グループ展を毎年開催