望月 集斬新なる絵付け

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望月 集
斬新なる絵付け

「紅葉図長角皿」 高さ4.5cm、64.5×24cm



東京藝術大学に入学した望月集氏であったが、デザイナーとして東京藝大で教鞭をとっていた父親と異なり、形と絵の両方をクリエイティブできる陶芸の道を選び、東京・中野の実家を改造して工房にした。
2010年、「蓮図長角皿」で伝統工芸陶芸部会展日本工芸会賞を受賞。久々に土ものに具象的な絵付けが脚光を浴び、画期的な受賞となった。

自己責任の陶芸を選ぶ

絵付けの新境地を切り拓いたことで一躍脚光を浴びた望月集氏は、丸ノ内線の終点・杉並区方南町に生まれ育った。父親は定年退官するまで、東京藝大で教鞭をとっていたデザイナー。若いころは、デザイン事務所を構え、大手企業の栄養ドリンクや調味料容器のデザインなどを手掛けていた。
んな父親に影響を受けた望月氏はデザイナーを目指したが、企業の制約が強いデザインの仕事は自分に合わないのではないかと思うようになった。そんなとき、漆芸家・松田権六の『うるしの話』を読み、自己責任は大きいが個人のリズムで仕事ができる工芸家の道を選択。東京藝大ではもともと粘土に触るのが好きだったので陶芸を専攻し、絵が描けて火遊びもできる(笑い)陶芸を仕事にすることにした。
時の藝大の陶芸教授は、望月氏が同大学の講師となった86年に重要無形文化財保持者に認定された藤本能道と田村耕一、「食と器」の大家・浅野陽の個性豊かな三氏。そのなかでも望月氏は、浅野教授の器に対する造形の深さ、技法の豊かや作品の自由さに惹かれた。そして、浅野教授の土や釉薬の準備、また釉掛けや窯焚きなどをとおして相当鍛えられた。何日も徹夜になることもありながら、自分の制作をおろそかにしてはいけないと諭されたのだ。また、先生の足柄の離れ家に時々泊まり、そこを拠点にスケッチをしたこともあった。ときにはご一緒に富士山や信州まで足を伸ばすこともあり、陶芸を越えた刺激を受けた。
月氏の赤絵は、そんな浅野教授の影響が大きい。赤絵は絵付けの代表的なものだが、浅野教授の赤絵はより明るい発色が特徴だ。望月氏は、そうした赤絵の表現を進化させていった。

赤絵と長石釉を組み合わせる

赤絵具は、白く焼き上げたものの上に塗ると明るくきれいに発色する。望月氏も初めのうちは、白土や白化粧の上に絵付けし、透明秞を掛けて焼いていた。しかし赤絵具は、ベンガラを主原料にしているため、焼き上がりの肌合いが艶消しになる。つまり、赤絵と土灰系や石灰系の艶のある透明秞では、肌合いがしっくりこないのだ。望月氏は、透明秞に代わる白マット釉をいくつか試してみたが、満足できなかった。
んなある日、望月氏は釉の質感がしっとりとしている志野の水指に百貨店で出会う。じっくりと見て、この白い釉肌の上だったら赤絵の色がよりきれいになると判断。それから、美濃土や釉の原料を取り扱っている土岐の業者と相談しながら、土や釉の調合、焼き方などの試行錯誤が始まった。ときには、自分の表現ばかりを優先してしまい、東京者は何を考えているか分からない、と上質の美濃土を勧めた業者に言われたこともあった。
月氏は、艶の柔らかい白い釉を求め、他の産地の原料もどんどん試した。その結果現在は、目的に応じて数種類の土を使い分け、その上に長石釉を掛ける。長石は平津とドイツの二種類で、それに少量の朝鮮カオリンが加わる。長石釉は、特有のピンホールが生じるが、望月氏はそのまま作品に生かす。こうして、制作途中に発見し、今は望月陶器の十八番(おはこ)となった陶技や丹念な制作法により、他の追随を許さない独自の赤絵に到達したのだ。

photo by Takashima Hideyoshi



MOCHIZUKI SHU PROFILE
1960年 東京都に生まれる
1986年 東京藝術大学大学院陶芸専攻修了
1986年 同大学非常勤講師(〜94年)
2006年 愛知県立芸術大学講師(~07年)
2010年 伝統工芸陶芸部会展日本工芸会賞
2015年 第3回陶美展奨励賞
日本伝統工芸展、東日本伝統工芸展、日本陶芸展、東海伝統工芸展で入選
国際交流基金、九州産業大学、宮内庁で買い上げ
全国の百貨店や画廊で個展、グループ展
日本工芸会正会員、陶芸工房「一閑」主宰