三好建太郎 古越前焼を目指す

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三好建太郎
古越前焼を目指す

「越前花入」  高さ23cm、17×13cm

「越前花入」 高さ23cm、17×13cm



北海道生まれの三好健太郎氏は1979年、越前市粟野町に割竹式の登窯を築いた。
唐津土と越前山土で唐津焼や越前焼を制作するかたわら、近年は窖窯で古越前を手掛ける。

越前で独立
好建太郎氏が薪窯を築いた粟野町は、越前陶芸村から南に車で10分ほどの小さな集落である。空き家になっていた農家を借り、改造を加えて陶房にした。
笠間で2年修行し、唐津で4年ほど茶陶の徳澤守俊氏に師事した三好氏は当初、生まれ故郷の北海道に戻る予定だった。しかし、越前陶芸村が陶芸家を受け入れていることを知り、途中下車して村営の陶房を借り、その後粟野町で独立した。今から36年前のことで、福井で窯をもっと貧乏になるよと陶芸村の先輩に忠告されものの、弟子の時代から集めた唐津土が貨車3輌分もあり、北海道に運んで工房を建てるには、かなりの資金が必要だったからだ。それに、祖父が永平寺で修行した坊さんだったので、運命のようなものを感じ、越前に決めた。
回かに分けて運び込んだ唐津土で作陶し、越前の地で焼いた作品を三好氏は「越前唐津」と命名した。そして、その制作スタイルで花入や水指などを制作し、1982年から氏より3年ほど前に京都から移り住んだ天目の第一人者・木村盛和氏(1921〜)の指導を受ける幸運に恵まれた。その木村氏が興味を示したのが斑唐津。電動轆轤で挽いた底なしの筒を底土に載せて三角に変形して段差をつけたもので、藁灰釉を掛けて36時間ほどで焼き上げた花入だ。

古越前焼に惹かれる
三好氏が花入などの成形の要所で使用しているのが、唐津でよく使われている叩き板だ。羽子板のような形をしており、土を叩き締めながら成形するときに使用する小道具で、叩き面には通常格子状の模様が刻まれている。唐津焼ではその痕跡が焼き物の表面に残っている場合もあるが、三好氏はそれを意識的に文様として取り入れている。
じような陰刻は唐津陶土を使用した花入や水指だけでなく、越前土による焼締作品にも施されることもある。越前にも唐津土と同じように叩き文様が出やすい砂目で腰の強い土があることがわかったからで、古越前焼では主にその種の土が使われていたのではないかと三好氏は推測している。事実、郷土の越前焼研究家は、古越前焼は山土を室町以降の越前焼では田土を使用したと証している。もともと土が好きで陶芸の世界に飛び込んだ三好氏だが、大量に買い込んだ唐津土を保管するために越前に居を定めたが、それが結果的に三好氏に新たな展開をもたらした。
分好みの越前陶土を求めた結果、現在は陶房の裏山を含む数カ所から山土を入手し、古越前焼がもう一つの制作の柱になった。三好氏はそれを、自ら設計した傾斜がほとんどない鉄砲窯のような窖窯で焼き締める。上蓋式であぶりまでを灯油で行い、攻め焚きを薪で行う。登り窯より引きを弱くし、南蛮焼のような感じをねらう窯で、この窯で古越前焼を見極めたいと思っている。



MIYOSHI KENNTARO PROFILE
1953年        北海道に生まれる
1973年        茨城県笠間で修行
1975年 唐津の徳澤守俊に師事
1979年        越前に割竹式薪窯を築き、唐津焼の制作を開始
現代越前焼展福井新聞社社長賞
1981年 福井県新鋭作家選抜美術展ブルーリボン賞
1982年        木村盛和に指導を受ける
1991年        白州正子の「こうげい」で二人展(渋谷・西武)
1995年        古越前焼の研究・制作を始める
2007年        窖窯を築く
1986年の横浜高島屋以後、大阪、岐阜、東京、米子、高崎、京都の各店で個展を開催