新庄貞嗣 新たなる伝統

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新庄貞嗣
新たなる伝統

「萩割高台茶碗」 高さ9cm、径12cm、高台径6cm

「萩割高台茶碗」 高さ9cm、径12cm、高台径6cm



萩焼の拠点の一つである長門・深川湯本で作陶する新庄貞嗣氏は、文禄・慶長の役によって渡来した朝鮮陶工李勺光の二代目山村作之充(さくのじょう)の弟子赤川助右衛門の子孫にあたる。
本来なら十四代新庄助右衛門と名のるところだが、伝来の萩焼を父親からほとんど受け継ぐことができなかったので本名で通し、再構築された助右衛門窯は新たな時を迎えている。

深川の外で学ぶ
400年ほど前に始まる萩焼の窯場は、大きく二つに分かれている。朝鮮からの陶工・李勺光と李敬兄弟が窯を築いた萩と、その弟子たちなどが拠点とした長門である。そして萩には現在、李敬を祖先とする坂窯と、「鬼萩」で知られる三輪窯があり、松本萩と呼ばれる。一方、温泉が湧く長門・深川湯本には新庄氏の他、坂倉新兵衛氏、田原陶兵衛氏らの窯がある。窯元はほとんど同世代で、子供頃からよく遊んだ仲良しだ。
れの速い三之瀬(そうのせ)川を挟む狭い深川(ふかわ)村三之瀬に窯が築かれたのは17世紀の中頃で、曹洞宗大寧寺から寺領内の薪の使用を許されたためだという。李兄弟が松本で活動を始めてから50年ほど経過したころのことだ。以後三之瀬の窯元は、毎年5月17日に観音講として大寧寺に集い、当番の窯元が準備した弁当を食す。さらに、正月5日の「お日待」、5月1日の「地神祭」、10月20日の「窯祭り」に一堂に会す。窯祭りは、坂倉家との間にある共同窯の上にある火の祠に火を灯し、祝詞をあげてお祓いをする質素なもだが、こうした三之瀬の一連の行事は、350年ほど経った今日に受け継がれている。
同窯の時代が終わっても三之瀬の窯元は、窯祭りなどの年間の行事をとおして絆を保ちながら深川萩を支えてきたが、新庄家は大きな不幸に見舞われた。父親の13代新庄寒山が早くに亡くなってしまったのだ。高校3年のときで、一人前どころか、窯焚きの手伝い程度の陶芸経験しかなかった貞嗣氏は途方にくれた。しかし、このまま窯を継いでも展望がないと判断し、いったん深川の外に出ることを決意し、母親もそれを認めた。
京藝術大学に入るのに2年ほどかかってしまったが、中学の頃からどうしてもやりたかった彫刻を専攻。在籍していた隣の坂倉新兵衛氏とはときどき顔を合わせ、卒業後は“執行猶予”と称して京都市工業試験場に1年在籍したが、カルチャーショックの連続であった。

従来の萩焼を変える
川に戻った新庄氏は、先代が残した土、釉薬、登り窯などをそのまま受け継ぎ、萩焼の制作を開始した。寒山が他界してからちょうど10年目に窯元が復活したことになるが、当初制作したのは「彫刻っぽいもの」であった。そしてそれは、山口美術展受賞という結果になり、以後新庄氏は公募展に積極的に応募するようになる。それによって、自分の作品がどのように受け取られているのかが客観的に捉えることができたからだが、家業の萩焼形成に大きな影響を与えたのが、萩焼の古い陶片だ。帰郷したころにちょうど古窯の発掘が行われており、新庄氏はそれに積極的に参加した。
い新庄氏には萩焼に対する先入観がまったくなく、また新庄家独自のものは正式に受け継いでいなかったので、従来の萩焼にはない土味や釉薬に出会い、自分なりの萩焼のイメージをつくる上げることができた。
のイメージを実現するために、必要性を痛切に感じたのが操作しやすい登り窯。帰郷してから8年経ったころのことで、ひいじいさんが明治の初めに築いた登り窯にはその大きさに振り回されて思うような焚きができなかったからだ。新たな登り窯の部屋数は前と同じ3部屋だが、高さと幅を抑え、従来の5分の3ほどの容積にし、勾配も自分で決めた。さらに「ぬき」といわれる支柱と、「てんびん」といわれる円形の棚板もすべてつくり直した。
作体制を整えた新庄氏は、茶碗を始めとする茶陶だけでなく、公募展などで目にした陶筥や台皿なども意欲的に手掛けている。一方、茶懐石に欠かせない向付などの食器類は、萩では型起こしによって制作されることが多い。新庄家にも数多くの扇、結文(むずびもん)、蛤、菊花などの土型や素焼き型が残されているが、新庄氏はそれらを使うことはない。残されている型が、微妙なところで現代に合っていないと感じているからで、モチーフは従来とほとんど同じだが、扱いに慣れている石膏すべてつくり直した。そういった意味で、先代が残した原材料を受け継いではいるものの、十四代を名のる必要性を、新庄氏はいまのところ感じていない。

photo by Takashima Hideyoshi

photo by Takashima Hideyoshi



SHINJO SADATSUGU PROFILE
1950年 十三代寒山(忠相)の長男として生まれる
1977年 東京藝術大学大学院彫刻専攻修了
1978年 京都市工業試験場陶磁器研修生修了
    山口県美術展知事賞1982年 山口県美術展最優秀賞
1983年 西日本陶芸美術展奨励賞、山口県知事賞
    日本工芸会正会員となる
    山口県美術展優秀賞
    防長青年館陶壁制作(山口市)
1984年 西日本陶芸美術展優秀賞、通産大臣賞
    茶の湯の造形展奨励賞
    山口県美術展最優秀賞
1987年 第1回長門市教育文化体育振興奨励賞(文化の部)
    伝統工芸新作展(山口支部)朝日新聞社賞(91年)
1991年 山口県福祉会館陶壁「逢う」制作(山口市)
1992年 伝統工芸新作展(山口支部)記念大賞
1993年 伝統工芸新作展(山口支部)NHK山口放送局賞
    大英博物館収蔵
1994年 下関社会保険健康センター陶壁「弾む・光る」
1995年 おおうちビル陶壁「律」(広島市)
2000年 萩焼400年展・パリ日本文化会館(パリ)
2001年 萩焼400年展(東京、京都、福岡、萩)
    山水園陶壁「華」(山口市)
全国の百貨店やギャラリーで個展多数開
パブリックコレクション:国際交流基金、山口県立美術館、田部美術館、そごう美術館、大英博物館、ホノルル美術館