林 康夫
オブジェ陶を切り拓く
前衛的な焼き物を日本で最初に目指し、1947年に京都で結成された「四耕会」の創立メンバー。四耕会ので、翌年には走泥社が立ち上がったが、林氏はいち早くオブジェ陶を制作し、海外での評価も高い。近年は「寓舎」がテーマ。
日本画から焼き物へ
林康夫氏は1928年、京焼の陶芸家のもとに生まれた。住居と仕事場が離れていたため、土にほとんど触れることなく育ち、官展や四条派の活躍を目の当たりにして現在の京都市立銅駝美術工芸高校絵画科に入学。後に日本画壇の中心的な存在となる加山又造や堂本尚郎らとともに日本画を学んだ。しかし、第2次世界大戦の勃発を機に海軍航空隊に入隊。特別攻撃隊として、出撃命令を待つ大分・佐伯で終戦を迎えた。
京都に戻った林氏は、現在の京都市立芸術大学に編入学し、再び日本画に取り組んだ。しかし林氏の体はすでに、日本画に入り込めなくなっていた。16歳から飛行機訓練を受けていたため、日本画のような空間の捉えかたができなくなってしまったのだ。林氏は翌1946年に大学を中退し、統制が解除されて焼き物を再開した父親の仕事を手伝うことにした。
1948年にオブジェ陶を
家業を手伝い始めた林氏は、今までの京焼を受け継ぐのではなく、自分の好きな新しいものをつくれ、と父親に諭された。伝統的な焼き物ではなく、芸術性の高い作品を要求されたのだ。そしてその命題に応えるキーは、五条坂の登り窯にあった。
江戸時代の半ばから窯場として栄えてきた五条坂は、京焼のるつぼ。作品づくりにおいて熾烈な競争が繰り返されてきたが、焼成は共同の登り窯で一緒に行われてきた。つまり、五条坂の窯元がどんな作品をつくっているか一目瞭然だったのだ。
登り窯で焼き上がった作品などを参考に新しい焼き物に取り組んでいた林氏は1947年、官展とは一線を画し在野として前衛的な陶芸を目指した「四耕会」の創立に参加。翌年の展覧会から、造形花器の「雲」、「群鳥」、「トルソ」などを初めとしたオブジェ陶を次々と発表し始めた。
1948年には同じ前衛陶芸の走泥社が立ち上がり、芸術性を目指した非実用的な陶磁器は大きなウエーブとなって、日本陶芸界の一角を占めるまでになった。アメリカを代表する陶芸家・ピーター・ヴォーカスがオブジェ陶に手を染めるのが1956年頃からだと言われており、林氏らの前衛性が世界的にも衝撃的で、しかもかなり先駆的だったことがうかがわれる。
京都の陶技と美意識で
1950年、家業とオブジェ陶制作を両立していた林氏に、フランス・チェルヌスキー美術館で開催される「現代日本陶芸展」の応募要項が舞い込んだ。選者に加わったのは、中国・定窯跡を発見した京都国立近代美術館の小山冨士夫。伝統、民藝、前衛などの各分野からまんべんなく選定するという審査の結果、イサム・ノグチ、富本憲吉らとともに前衛陶器では林氏が選ばれたのだ。フランス展で大きな足跡を残した林氏は、1970〜80年代にはイタリア、カナダ、ポルトガルなどの国際展で最高賞を受賞。前衛陶芸家としての評価は海外でも確かなものになった。
林氏は10年ほど前から「寓居」をテーマにしている。手びねりとは思えないすらっとした壁で囲んだ箱形に、陰影を施したシリーズだ。感じたことや思ったことを、林氏ならでは端正な仕上がりと収まりのいい空間が構築したものだが、そこには林氏が生まれ育った京都の四条派の美意識と空間性が貫かれている。
HAYASHI YASUO PROFILE
1928年 京都に生まれる
1940年 京都市美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高校)絵画科に入学
1943年 第二次大戦により海軍航空隊に入隊
1945年 敗戦。京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)に編入学
1946年 大学を中退し、父の陶業再開とともに家業を手伝う
1947年 四耕会結成に参加
1950年 現代日本陶芸展(パリ、チェルヌスキー美術館)
1969年 清水焼団地に築窯
1972年 第30回フアエンツア国際陶芸展グランプリ(イタリア)
1973年 カルガリー国際陶芸展グランプリ受賞(カナダ)
1974年 第4回バロリス国際陶芸展グランプリ、ドヌール賞(フランス)
1987年 第1回オビドス・ビエンナーレグランプリ(ポルトガル)
1994年 京展賞
1998年 『林康夫作品集』を河出書房新社より出版
「数学とセラミック展」(ドイツ、ベルリン他)
京都市文化功労者
1999年 京都市美術文化賞
2000年 オペラ“牡丹亭”の舞台美術(フランス、ニース・カンヌ)を手掛ける