山路和夫
剪紙文の新境地
東京神田・松下町生まれ、カナダで焼き物に出会う。広島で出合った「剪紙」を陶芸技法に取り入れて30年数年。江戸の情緒と西洋文明が交錯する剪紙文で、独自の世界をつくり上げている。
型紙に再会
1949年、東京・神田松下町のとび職の三男に生まれた山路和夫氏は、60年代にアメリカで生まれたヒッピーに強い影響を受けた。ベトナム戦争に反対し、徴兵を拒否した若者が中心となったヒッピーは、規制の価値観による社会生活を否定して自然回帰を提唱。共感した山路氏は、カナダ・モントリオールに渡り、日本料理店で皿洗いをしながら暮らした。
カナダに渡った翌年、転機が訪れた。パブでくつろいでいた山路氏に、日本語の上手いカナダ人が話し掛けてきた。
「濱田庄司を知っているか?」
何のことかまったく理解できなかった山路氏は、そのカナダ人が濱田庄司の元で修行した陶芸家であることを知る。年譜に、67年にモントリオールで作陶生活に入る、とあるが、山路氏はその工房に5年間世話になり、陶芸家として歩み始めた。
72年、日本に帰った山路氏が向かったのは、もちろん益子。窯元で2年間研修し、74年に笠間で独立した。窯を築いたのは、笠間市が笠間芸術の森公園の西隣に造成した窯業団地。現在は「陶の小径」として、10数軒の工房と陶芸機材店が軒を連ねる。制作したのは、益子焼の伝統的な柿釉や飴釉を掛けた民藝風の陶器で、蠟抜きも手掛けた。
そんな山路氏に81年、2度目の「自然回帰」が起こった。広島県北部の中心都市である三次市で、牧場をやりながら陶器づくりをやらないかという誘いがあり、動物が好きだった山路氏はすぐにその話に飛びつき、一家で移住した。
中国自動車道が通る三次市は、瀬戸内海と日本海のほぼ中央に位置する。そのため山路氏は、半農半陶の合間に日本海側にもしばしば足を伸ばした。そして、偶然訪れた出雲民芸館で、染織の型紙に“再会”した。というのは、神田の実家の近くは紺屋町で、藍染めや型紙などに日頃から接していたからだ。酪農で胃潰瘍になってしまった山路氏は、85年に笠間に戻り、民芸館で陶芸に使えると直感した型紙を使った焼き物づくりに本格的に取り組むことになる。
内外の文様を取り入れる
山路氏が使っている型紙は、着物の生地を染めるときに使用する型紙とまったく同じで、和紙を柿渋で加工したもの。三重県鈴鹿市で生産されている重要無形文化財の伊勢型紙が全国の9割を占めており、山路氏もそれを取り寄せている。
小刀や刃が方形になっている彫刻刀で型紙に切り抜かれているのは、三角、方形、菱形、多角形、円形などの幾何学模様。それらを組み合わせた文様は、日本の伝統的な市松模様や江戸小紋などを思わせる。神田育ちならではの納得の文様だが、近年はイスラム教やキリスト教寺院などの装飾模様も取り入れ、イスラムや欧風のにおいも漂う。また、放映されたチャールズ皇太子の結婚式で目にしたウエストミンスター寺院のタイル模様にも興味を深めるなど、探求心は健在だ。
こうした型紙による文様を山路氏は、中国の代表的な民族芸術の一つである「剪紙」文と命名し、今日に至っている。内外の民衆に受け継がれてきた文様を、おのれの芸術表現まで高めたところに、山路氏の独自性がある。
YAMAJI KAZUO PROFILE
1949年 東京に生まれる
1967年 カナダ・モントリオールに渡り作陶生活に入る
1972年 帰国
1974年 笠間に築窯
1981~85年 広島県三次市で研修
1988年 伝統工芸新作展入選
朝日現代クラフト展入選
第35回日本伝統工芸展入選
茨城県芸術祭奨励賞
1989年 第10回日本陶芸展入選
1990年 茨城県芸術祭優秀賞
1993年 茨城県芸術祭会友賞
1996年 アメリカコロンバス芸術大学で講演
外務省国際交流基金よりフランス派遣
1997年 北関東陶芸展特別賞
2002年 茨城県芸術際板谷波山賞
2003年 第2回韓国世界陶磁ビエンナーレ入賞
2005年 第18回日本陶芸展文部科学大臣賞
2006年 日本工芸会陶芸部正会員
第34回新作陶芸展日本工芸会賞
2009年 第5回韓国世界陶磁ビエンナーレ特別賞
日本工芸会正会員、茨城工芸会会員、茨城県芸術祭会員