木村盛康 色彩のハンター

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木村盛康
色彩のハンター

「天空方壺」高さ36cm、16×16cm

「天空方壺」高さ36cm、16×16cm


天目釉は、長石を主原料に鉄分などを含んだ鉄系の釉薬。鎌倉時代から油滴、曜変、禾目などの天目が伝えられ、日本人を魅惑した。京都・五条坂に生まれの木村盛康氏もその神秘的な魅力にとりつかれ、伝来の天目色をはるかに越えた領域に到達した。

魅惑の天目
天目」は、もとは中国福建省の建窯で焼かれた「建盞」(「盞」は盃または浅めの碗)を指す。北に隣接する浙江省天目山の禅寺で用いられていた「建盞」を禅僧が鎌倉時代に持ち帰り、日本ではそれらを「天目」と総称するようになった。
窯など中国各地の窯で焼かれた天目は、黒色や褐色のいわゆる鉄系の釉薬を掛けたものだ。釉薬のなかに含まれている鉄を主成分とする金属は、その種類や量、それに素地や焼成などによってさまざまな焼き上がりを呈した。曜変、油滴、禾目、灰被(はいかぶり)、玳皮盞(たいひさん)ほかが伝えられているが、その頂点といわれているのが曜変天目だ。
本に4作品が存在するだけといわれている曜変天目茶碗は、黒地に青や銀白色の大小の丸い斑点が浮かぶ。同じ黒地に黄金色や銀白色の斑文模様が現れているのが油滴天目で、禾目天目は兎の毛のように細長い斑文が内面と外面に流れて下っている。いずれも、陽の光りに当てると次々と新しい色彩が現れ、見る人を幻惑する。

長兄の影響で陶芸家に
の天目の光りに魅せられたのが、京都山科区の清水焼団地に窯を構える木村盛康氏である。木村氏は1935年、京焼の絵付職人の四男として京都五条坂に生まれた。母親も絵具のすりを行っていたが、ともに通い職だったため、家庭には窯の仕事にたずさわっているという雰囲気はほとんどなかった。そうした家庭環境のなかで木村氏が陶芸を志すようになったのは、木の葉天目を再興した15歳年上の長兄・木村盛和氏の影響が大きい。
の葉天目は、漆黒色に発色した鉄釉の上に黄褐色の木の葉の葉脈文様を焼き上げたもので、曜変天目と同様に評価が高い。木村氏は中学2年から、木の葉天目に取り組んでいた長兄の窯場の手伝いをするのが日課となった。
然のなりゆきで高校の陶芸科にすすんだ木村氏は、卒業したての頃国宝の「油滴天目茶碗」を目にして、魅せられた。57年、指導所の専科を卒業した木村氏は長兄・盛和氏に指示し、66年には山科の清水焼団地に移り、現在に至っている。

独自の釉調
油滴天目茶碗」に出会ってから天目釉に取り組むようになった木村氏だが、当初から油滴天目を再興しようとは思わなかった。釉薬の深みや気品のある天目形に感動はしたものの、手に持つこともできなかったことが一因である。しかしそれよりも木村氏は、長兄の鉄釉に対する取り組みに感化を受けて、資料を参考にして釉薬を調合し、焼成試験を繰り返すほうに熱中した。工芸指導所の仲間とともに情報を交換しながら、いつの間にか古来の油滴天目や曜変天目とは異なる釉調の領域に入り込んでいたのだ。
松樹天目」や「耀変天目」は油滴のバリエーションとして、「華炎天目」や「極天」は色の窯変を模索しているうちに生まれ、「禾目碧天目」は今までの禾目にはなかった色彩だ。「天目 宙」は禾目の技法が展開された作品である。こういった木村氏独自の驚異の色彩世界は国外でも評価が高く、故宮美術館をはじめボストン美術館、大英博物館、ダラス美術館、ヒューストン美術館などで永久保存されおり、変化しやすい鉄釉研究が永遠のテーマとなっている。





 

 KIMURA  MORIYASU  PROFILE
1935年 京都五条坂に生まれる
1957年 京都市工芸指導所陶磁器技能者養成専科卒業し、兄の木村盛和に師事
1970年 日本伝統工芸展「天目釉壺」外務省買上
1972年 日本工芸会第1回新近畿支部展近畿支部長賞
1978年 日本工芸会第7回近畿支部展で大阪府教育委員長賞
1986年 故宮美術館に「松樹天目壺」永久保存
1992年 ボストン美術館に「禾目碧天目壺」「松樹天目茶碗」「窯変禾目碧天目茶碗」永久保存
1996年 ダラス美術館に「華炎天目茶碗」「松樹天目花入」「禾目碧天目器」永久保存
1997年 ヒューストン美術館に「窯変禾目天目壺」「禾目碧天目茶碗」永久保存
1999年 大英博物館に「華炎天目大鉢」「松樹天目茶碗」所蔵
2000年 ハーバード大学美術館に「耀変天目茶碗」「禾目碧天目壺」「禾目天目鉢」所蔵
全国の百貨店などで個展多数