十四代金ヶ江三兵衛
古伊万里に倣う
2005年に十四代を襲名した金ヶ江三兵衛、本名省平氏は、月に一度登り窯を焚く。目指しているのは、薪窯でなければその風合いに近づくことができない初期伊万里で、初代が焼いていたころの窯から発掘した陶片や伝世品を元にする。
十三代が再興し、初期伊万里を目指す
佐賀・有田町東方の泉山で白磁鉱を発見した李参平は、朝鮮忠清南道金江出身の李朝陶工だ。文禄・慶長の役を機に、1597年に渡来し、帰化して金ヶ江三兵衛と改めた。朝鮮陶工の長として泉山の陶石による本格的な磁器生産を指導し、鍋島直茂公とともにJR上有田駅の近くの陶山神社に相殿神として祭られている。しかし五代目以降、金ヶ江家は焼き物の実業から姿を消した。それを復興したのが十三代で、代々伝えられている古文書をひもとき、古くから窯場として知られる稗古場に窯を開いた。
泉山、稗古場、赤絵町などを含む有田町東部一帯は江戸時代からの磁器生産の中心地で、現在も香蘭社、深川製磁、今右衛門窯など、日本を代表する窯元が軒を連ねる。染付や刳り貫きなどを制作する父を見て育った金ヶ江省平氏は、自然に陶芸を志向するようになった。窯業試験場などで本格的に轆轤を学んで伝統工芸士を目指したのは、制作の原点に戻るため。そしてその方向性を示唆してくれたのが、伊万里焼の収集家として知られる柴田夫妻だ。そのコレクションにはJR有田駅近くの九州陶磁文化館で接することができるが、李参平が制作した初期伊万里の再興を、その子孫に託した。
素朴で自由奔放な染付
2005年前に名跡を継いだ十四代が制作している中皿は、口径に比して高台がかなり小さく初期伊万里の特徴を色濃く伝えている。腰が落ちるのを防ぐために、二重高台にすることもある。焼成すると腰だけでなく、縁もかなり落ちてくるので、それを予測して仕上がりよりも腰高に挽き上げる。薪で焼成すると初期伊万里の風合いにいちばん近くなる鉄分をやや多めに含む磁土を使用し、現在は初代と同じ泉山の磁土を使うことが多い。
近世有田地区で焼かれた磁器は、隣の伊万里港から積み出されたので伊万里焼と呼ばれ、江戸時代のものはとくに古伊万里と称されている。なかでも17世紀前半から半ばに焼かれた染付、白磁、青磁は初期伊万里として区別される。西欧を始めとする海外に多量に輸出された赤や金で隙間なく描かれた色絵磁器とは、作風が大きく異なる。
伊万里焼の草創期には、皿などの一般的雑器の他に、壺、酒器、花器などがつくられた。そして中皿の項でも述べたように、高台が小さく、素地がやや厚めなのが特徴だ。また染付の絵柄は素朴で、自由奔放に描かれている。その絵付けを担当しているのが妻の美里さんで、十四代がこだわり続けている薪窯による窯焚きも手伝う。
200回を超える焼成になるという登り窯は、焼締作家と焚く小振りな共同窯だ。十四代の作品はさや鉢に入れて二室に詰め、丸2日間焼成し、二室は最後の6時間前後焚く。初代のころと同じ薪による焼成で、呉須の発色に深みが増し、素地もほんの少し褐色を帯び、半艶状になる。 十四代は、15年以上続けてきたこの焼成に、初代に通じる手応えを感じている。
Kanegae Sanbei Profile
1961年 十三代金ヶ江三兵衛の長男として有田に生まれる
1981年 九州造形短期大学クラフト科卒業
1982年 佐賀県立窯業試験場ろくろ研修修了
1983年 伝統工芸士・徳永象次に師事
1992年 九州山口陶磁展日刊工業新聞社賞受賞
2002年 韓国・利川にて李朝白磁の研修
2003年 現代韓日陶芸展招待(利川陶磁EXPO)
2005年 伊万里・有田焼伝統工芸士に認定
2005年 佐賀県立九州陶磁器文化館で個展
2005年 十四代金ヶ江三兵衛を襲名
2007年 九州国立博物館で展示
2008年 有田町幸平に陶祖李参平窯ギャラリーを開設
2009年 十四代李参平 韓日交流帰郷展(釜山−福岡−佐賀)