島田恭子
独学の草花文
都内でみた銀彩の焼き物に感動し、一週間後に益子の陶芸家の門をたたく。縁があって古くからの窯元に嫁ぎ、一家で陶芸作家に転向。独学で習得した草花文を得意とし、益子を代表する人気作家の一人として活躍する。
陶芸作品を目指す
繊細で優美な四季の草花文で知られる島田恭子氏は、1955年茨城県西部の桜川市に生まれた。栃木県芳賀郡と北で接する同市内から益子町までは、車で20分ほどの距離だが、島田氏は東日本最大の窯業地である益子の存在を20歳過ぎまでまったく知らなかった。高校を卒業し、都内の大手服飾メーカーに就職した島田氏は、日本橋の百貨店で開かれていた瀬戸浩(1941-94)展で、人生を左右するほどの感動を味わった。そして一週間後には、弟子にしてもらうために、生まれて初めて益子を訪れ、瀬戸の工房を訪ねた。
幾何学的なストライプ文様を確立した瀬戸は、京都市立美術大学工芸科出身。益子町を作陶拠点に決めた同大学の先輩である加守田章二を追って、同地で制作していたのだ。しかし、弟子としては雇えないが、陶芸を始めるなら窯業指導所があると言われ、退職届けを出して翌年指導所の試験を受けた。古くからの窯元と濱田庄司のような陶芸作家が混在する益子では、陶芸作家の育成を県の窯業指導所と塚本製陶所の研究生制度が担ってきた。しかし、窯業指導所は県の機関であるため、陶芸家としての独立が困難な女性に対しては当時審査を厳しくする傾向にあった。ましてや島田氏は茨城県出身だったので、笠間で学んだほうが理にかなっていた。
しかし島田氏は、益子に骨を埋める覚悟で受験。その気迫が功を奏して一年間栃木県立窯業指導所で学ぶことができ、その後町内の陶芸店でアルバイトをしながら瀬戸浩のような陶芸作品を目指した。そして、縁があって益子参考館の近くに古くから窯を構える島田陶芸苑の後継ぎ・緋陶志氏と結婚。島田陶芸苑は、益子で日常雑器を手広く焼く四代続く窯元だが、緋陶志氏の代からは作家ものに大きく舵をきっている。島田家の両親もそれを認め、現在緋陶志氏、長男、それに恭子氏が、それぞれの部屋でおのれの陶芸作品を目指している。
佳品に学ぶ
島田恭子氏の制作室は、敷地を入ったすぐ左側。かつては商品の益子焼などをならべていた展示室である。商品を梱包していたと思われるカウンターが成形の作業台で、作品のほとんどは土ひもを重ねる手びねり。轆轤で挽き上げるより自由な形にすることができるからで、土は益子の皿土や並土三割に信楽の赤を混ぜた黒土。大きいものは少しずつ乾かしながら、3個ほどを並べて同時制作する。
しかし島田氏は、特定の個人には師事していない。瀬戸作品のときのように、いいものに出会って感動し、それに負けない作品を目指し、陶芸技法は手探りで工夫を重ねてきた。化粧土による布目技法もその一つで、当初は化粧土を一度生掛けしただけであった。だが、背景に奥行きが欲しいと判断した作品の場合は、化粧土の二重掛けを行うという陶技に到達している。それも最初は流し掛けで、二度目は布目による刷毛塗り。流し掛けでは掛け残しを行って雲の切れ間などをうっすらと表現する一方、刷毛塗りではガーゼのような綿の蚊帳を使って布目を柔らかくし、下絵や金彩を損なわないようにしているのだ。奥行きのある布目に描かれているのは、敷地内に自生したり、山から移植したりした草花。それをしっかりと脳裏に刻み込んでから、下絵付け及び上絵付けを行う。
自然の草花をモチーフにした作品は、多くの愛好家に受け入れられている。それも、初めて見て購入されることも少なくなく、益子での人気も高い。都内大手百貨店では、ここ十数年個展を毎年開催するほどで、島田恭子氏は益子を代表する人気作家の一人であることは明白な事実だ。
SHIMADA KYOUKO PROFILE
1954年 茨城県に生まれる
1978年 栃木県立窯業指導所修了
作陶を始める
1984年 第1回益子焼陶源郷展出品(87年)
1994年 島田恭子作陶展(NHK宇都宮放送局主催)
1997年 源氏物語 「千年の恋」着物デザイン出品(赤坂プリンス)
1999年 とちぎの陶芸・益子展(下野新聞社主催)出品
個展(日本橋髙島屋、以後毎年開催)
2001年 島田恭子きものコレクション
(日本橋髙島屋、02年、04年、05年)
2003年 個展(東京アメリカンクラブ)
2004年 「島田恭子草花文様」出版
個展(ニューヨークgallery gen、05年)